ファーリントンらら
あの日全てが始まった。二〇一三年の春じゃなくて秋の日。母が買ってくれたピンクの花もようなドレスを着て入学式に出席した。母が撮っていた入学生が並んでいる写真を今見ると顔が変わっている子もいて、全く変わっていない子もいて、「こんな子いたんだー」って思わせる完全に忘れちゃってる子もいる。仲が良くなったクラスメートが毎年どんどん減り、あの頃は今日私と卒業する大切なクラスメートは誰で、どんな大変な勉強も一緒に乗り越えてきた事も知らなかった事が微笑ましいです。九年分の思い出を振り返れば、あっという間の九年が大変で、補習校でしか味わえなかった経験で溢れた長い長い九年間だったと思 えてきました。
一年生、毎週絵日記を書いてノリティ校長がステッカーを貼ってくれ、毎回短いメッセージを書いてくれていました。毎週そのメッセージを読むのが私の幸せだったです。今でも印象に残ったメッセージがあります。ダンスの大会に母が出させてくれなくて怒っていた私の日記に「お母さんは、きっと、何か考えがあるのでしょう。よく話し合ってみてください。」と書いてくれました。その年は大会に出られなかったが、二年生になってちゃんと母と話し合い、大会に出ることができました。ノリティ校長が書いてくれていたメッセージはただ幸せだけではなく、私にとって普段誰も教えてくれない人生の教訓だったことに気付きました。
ノリティ校長の温かいメッセージだけではなく、出会ってきた色々な先生方が考えてくださった課題、クラスメートとの濃い絆、母からの一生大切にする応援で私の九年間が幸せで溢れていました。
中学二年生の時のグループ活動も、今年行った六年生との合同授業も私たち卒業生五人で現地校も忙しいなか頑張って走り切れました。このような思い出はこの先絶対忘れない自信があります。いや、忘れたくないです。私は一生懸命で、頑張り屋で、悔しいほどに頭がいいクラスメートと卒業ができて本当に嬉しいです。九年間ありがとう。
四年生、クラスで開いた「初雪の降る日」の発表会、母は夜遅くまで発表会で使うマフラーとニット帽を縫ってくれました。母の応援やサポートがなかったら、私はここまで頑張り続けられなかったと思います。勉強を教えてくれている時も沢山喧嘩をしたけれど、母からの応援とサポートがこの世で一番嬉しいです。これからも応援してね。
補習校に行かせてくれてありがとう。これまで出会ってきた先生方、色々な体験をさせてくれてありがとうございました。
特別な場所 大切な時間
小嶋流穏
天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に 出でし月かも
百人一首 第七番歌 阿倍仲麻呂が詠んだ歌です。
百首ある中で唯一、日本の地以外で詠まれました。
外国で見る月も、日本で見る月も、同じ月。
近いようで遠い、遠いようで近い日本。
僕が日本を思う気持ちは、阿倍仲麻呂と似ているのかもしれません。
日本語授業補習校は、海外で暮らしている僕にとって、ここでしか 会えない仲間と、日本語で勉強し日本文化の経験ができる、特別な場所、大切な時間です。
卒業することで、達成感や頑張った自分を褒める気持ち、やっと宿題から解放されるという安堵感、これからは自分自身で学び進める不 安感など、なんともいえない感情が渦巻いています。
登校するとあっという間に下校時間になり、名残惜しい気持ちで帰る準備をしたこと、校舎が3度変わるたびに、新しい世界に入る高揚感で胸が震えたこと、書道教室の墨の香りと、研ぎ澄まされる感覚に 清々しさを覚えたこと、つきたてのお餅の柔らかさに衝撃を受けたこと、アーミーダックに乗っているクラスメイトに木漏れ日が降り注ぎ、笑顔がキラキラと輝いていたこと。
大切な思い出がたくさんあります。
その反面、辛いこともありました。
学年が上がるにつれてクラスの人数が減っていくことが寂しく、特に 仲が良かった友達が辞めてしまった時は、自分の心の中が空っぽになるような喪失感を初めて経験しました。
土曜日午前中の誕生会や、放課後の遊ぶ誘いを断り、補習校に行き、宿題をする。こんな時は、「なんで」と思い、遊んでいる友達が羨ましく、友達の輪から取り残されることが悲しかったです。
小学校六年間は、毎日欠かさず日記を書きました。
キャンプで薄暗いランプの下、文字が見えないなと思いながら書いたり、飛行機の中で書いたら、寒くて震えているような文字になり、笑ったこと、日本でコタツに入りみかんを食べながら書いていたら、 果汁が飛び散り、ノー トが黄色く染まったことなど、今でも昨日のことのように記憶が蘇ってきます。
書くことが見つからないと泣き、時には涙がノー トにこぼれ、涙で 湿ったところを消しゴムでこするから穴が開く、それを見てまた涙が出る。こんなことを繰り返した六年間。
使用したノートは四十七冊になりました。
中学生になり、難しい漢字や意味が理解できない用語が増え、イントネーションの間違いを何度も直される。学習内容の壁が高くなるに つれて勉強時間が延び、眠い目をこすりながら机に向うようになりました。補習校の負担が日々の中に重くのしかかってきて、何度も「もう辞めたい」と言い、そのたびに家の中が灰色の重苦しい空気になりました。
補習校に入学する時に、入学したら最後までと約束したことを悔やみました。両親は、僕が途中で辞めると言い出すことを、予知していたと思います。それほど九年間続けるのは大変と知っていたのなら、 最初から教えてくれればと思いました。
くじけそうなこともありましたが、たくさんの涙とともに頑張って 続けてこれたのは、自分は日本人で日本が好きだから、日本の文化や言語を知らないといけないという考えがあったからです。
僕は将来、建築士になりたいと思っています。
きっかけは、国語の授業で釘もネジも使わずに、五十メートルにもなる高さの建築物を作る宮大工という職種を知り、日本人の巧みな技術や工法の精密さに驚き、建造物に興味を持ったからです。
このような機会を与えてくれて、たくさんのサポートをしてくれた両親にとても感謝しています。
そして、たくさんの知識と経験をくれた先生方、一緒に苦楽を共にしてきたクラスメイト、違う学年だけど一緒に勉強をした仲間、補習校運営に尽力してくれた方々にも感謝を伝えたいと思います。ありがとうございました。
特別な場所で過ごした大切な九年間。ここで得た知識と経験は、僕という人間の心柱になりました。 僕の日本を思う気持ちがこれからも続くように、それは自分の心がけ次第であるということを忘れずに、目標に向かって努力していこうと思います。
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